1980年代に海外旅行が急拡大した理由 -海外渡航自由化50年の歴史(5)

日本旅行業協会(JATA)の発表資料で振り返る、海外渡航自由化50年の歴史・第5回は、海外旅行が急拡大した1980年代について。中東戦争や石油輸出制限の影響で増加と停滞を繰り返した1970年代に対し、1980年代は成田空港の開港や円高、国の「海外旅行倍増計画」(テンミリオン計画)によって急角度の右肩上がりで成長。この10年で海外旅行者数は1980年の390万人から1990年には1000万人達成するまでに拡大し、海外旅行に慣れた客層向けの新商品も普及し始めた。(画像はJALサイトより)

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▼渡航自由化以前から見えていた新空港の必要性

1980年の海外旅行市場の成長は、1978年の成田空港の開港抜きに語れない。新空港の必要性は、開港の十数年前にさかのぼる、渡航自由化以前から指摘されていたものだった。

需要に対する既存空港の処理能力が限界になるとの見通しから、運輸大臣が航空審議会に「新東京国際空港の候補地およびその規模」について諮問したのは、1963年8月。1966年には当時の佐藤栄作総理大臣が自ら、千葉県知事に成田市三里塚への空港建設の協力を要請。住民対策の要望を申し入れた上で、千葉県知事も了承した。

運輸省で1967年から成田問題に取り組み、1972年6月に航空局監理部国際課長に就任した新東京国際空港公団・元総裁の中村徹氏は、「当時は航空市場の需給論から新空港の必要性に対する認識が一般に共有されるまでに至っておらず、もっぱら『成田闘争』という視点からの関心に偏っていたと記憶しています」と振り返る。

1970年代には日本発着の航空需要が羽田空港の処理能力を上回り、着陸時の上空大気や離陸時の遅延が日常化。「早く成田に区校ができないと大変なことになると思いながら、連日スロットの調整に苦労していました(中村氏)」。


▼円高とテンミリオン計画で飛躍

1978年5月20日、成田空港の開港式典で、当時の福永健司運輸大臣が「難産の子ほど健やかに育つ」と挨拶した通り、国際線の日本人旅客数は順調に増加。1978年度の392万人から、5年後の1983年度には500万人を突破した。日本人出国者数も開港翌年の1979年には、前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人の大台に乗った。

1985年のプラザ合意を経て円高が進むと、さらに海外旅行市場は拡大。国際線の日本人旅客数は、1987年度は869万人、1988年度は1082万人にまで急拡大した。1987年9月、運輸省が「海外旅行倍増計画(テンミリオン計画)」を策定し、海外における安全対策や長期休暇取得運動の充実を図る施策が推進。日本人出国者数は、1987年に23.8%増の682万9338人、1988年に23.4%増の842万6867人と2割増を続け、1990年には1099万7431人となり、目標の1000万人を到達した。

海外旅行需要の急成長を、内陸空港の成田空港が支えたことに対し、中村氏は「背景には、『地域との共生』という地道な努力があったことを忘れてはなりません」と強調する。


▼海外旅行商品にも変化

FIT志向のパッケージツアーが登場

旅行開発(現・ジャルパック)は成田空港の開港3か月前となる1978年2月、フリータイム型の海外旅行商品「ZERO」を発表した。海外旅行に慣れてきた若者向けに企画されたもの。この当時すでに、語学力や海外旅行の情報を得た行動派の若者層を中心に“ジャルパック離れ”、つまりパッケージツアー離れの傾向が見られるようになったという。

ZEROを皮切りに、他社も同様のツアーを発売。「DIY市場」への取り組みが進み、FIT市場へ続く道筋ができた時代となった。

なお、ZEROの設定方面は若者層に人気の高いアメリカが中心。北米が60%、ヨーロッパが30%、グアム・オセアニアが10%だった。

(トラベルボイス編集部)

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