みなさんこんにちは。日本修学旅行協会の竹内秀一です。
2024年1月元日、能登半島でマグニチュード7.6という大きな直下型地震が起き、石川県をはじめ北信越地方に大きな被害が出ました。また、8月8日には、日向灘を震源とするマグニチュード7.1の地震が宮崎県を襲い、気象庁から初めての南海トラフ地震臨時情報が出され、該当する地域では緊張が走りました。
なぜ「震災学習」「防災・減災学習」が修学旅行のテーマになるのか。今回のコラムでは、災害への備えを学ぶ意義について、東日本大震災で被災し、震災遺構となった宮城県の3つの学校の事例を紹介しながら解説していきます。
被災地で災害の経験と復旧・復興を学ぶ学校が増えている
東日本大震災以降、学校では消防署などと連携して避難訓練・防災訓練やハザードマップ作りなどの防災・減災教育が強力に進められています。高等学校学習指導要領に定められた「総合的な探究の時間」の解説にも、探究課題の例として「防災:安全な町づくりに向けた防災計画の策定」があげられ、SDGsの目標11「住み続けられるまちづくりを」には「災害による死者や被災者数を大幅に削減」することがターゲットの一つに掲げられています。
地震やそれが引き起こす津波、線状降水帯発生にともなう豪雨とそれによる洪水や土石流、そして火山噴火など、自然災害そのものをなくすことはできませんが、自然災害について正しい知識を持ち、その被害を最小限に食い止める術はこれまでの歴史や経験から学ぶことができます。また、災害を乗り越え新たな「まちづくり」に取り組んでいる被災地からも、自分たちが暮らすまちを災害に強い「住み続けられるまち」にするにはどうしたらよいか、といった課題を考えるうえで多くを学べます。
そうしたことから、修学旅行で被災地を訪れ、被災した建物などの遺構や災害の経験を伝承する資料館を見学したり、体験された方々のお話を聴いたり、さらに被災地の復旧・復興への取り組みについて学んだりする学校も増えてきました。
とくに、東日本大震災では、生徒たちにとって身近な存在である学校が大地震や津波などの被害を受け、多くの子どもたちの命が失われたところもありました。大震災から13年が経ち、被災地では二度とあのような惨事が繰り返されないよう、大震災の記憶を伝えるための震災遺構としてそれら学校の校舎が保存・整備され、震災学習や防災・減災学習を目的に、修学旅行でも多くの学校が訪れています。今回は、震災遺構とされた宮城県の3つの学校を紹介したいと思います。なお、ここでは被災された地元の方に遺構を案内していただくこともできます。
【事例1】震災遺構 仙台市立荒浜小学校
児童・近隣住民らが屋上に避難
荒浜小学校は、かつて海水浴場としてにぎわっていた海岸から約700メートルのところにありました。大震災の前、この地区にはおよそ800世帯、2200人余りの人々が暮らしていたといいますが、現在は「危険区域」に指定されていて、住民は一人もいませんし家屋も全く見られません。大震災当日、荒浜小には児童・教職員と近隣住民らあわせて320人が避難しましたが、全員が屋上に逃れ無事救出されました。
大津波の凄まじさを物語る校舎
校舎の外壁には津波の浸水高を示すプレートが掲示されています。その高さは、地上から4.6メートル。4階建て校舎の2階まで津波が達していたことがわかります。津波に破壊されたベランダの柵がそのまま残され、校舎内では1・2階の教室の天井や床などが被災した状態のまま公開されています。廊下の壁面に掲示された被災直後に撮影された写真とあわせて見ると、大津波の凄まじさが実感できます。
被災を免れた4階の教室では「3.11荒浜小学校の27時間」という映像をみることができます。当時の校長先生・教頭先生、町内会長さんたちの証言からは、大津波の恐怖がリアルに伝わってきます。また、荒浜小にいた全員が助かったのは、避難場所が見直されていたこと、地区のコミュニティが普段からしっかりと機能していたことなどが背景にあったことがよくわかります。
屋上から望む大津波の跡
その他の教室には、避難した人たちが使用した毛布、紅白幕などの実物や救助されるまでの経過を伝える写真などが展示されています。教室の窓からは、海岸沿いの松林の向こうに海が見えますが、震災前には、この松林は鬱蒼とした防風林で海は見えなかったといいます。大津波で、松のほとんどが根こそぎ流されてしまったのです。
320人が避難したという屋上からは、荒浜地区全体を見わたすことができます。大津波に飲み込まれていく町を、避難した子どもたちや地区の人たちはどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
修学旅行で訪れる生徒たちも、ここに立てば震災の恐ろしさをきっと肌で感じることと思います。
【事例2】石巻市震災遺構 大川小学校
犠牲になった84名の児童と教職員
大川小学校は、北上川から200メートルほど離れたところにありました。曲線の多いモダンなつくりで素敵だったはずの校舎は、今では壁がほとんど無くなり、屋根と柱と床など、骨格だけになった無残な姿を曝しています。この地区も、現在は「危険区域」とされていて人は住むことができず、かつてあった町の面影はほとんどありません。
大川小学校では、大津波に飲み込まれた74名の児童と10名の教職員の命が失われ、あるいは行方不明となりました。そのことを伝えるニュースを、読者の皆さんも鮮明に覚えていらっしゃると思います。ここでは、遺族の方々がつくる「大川伝承の会」などにお願いすれば、当時の状況などをお話ししてもらうことができます。
大川小学校で何があったのか
3月11日、大地震が起きたあと、地元の広報車が津波からの避難を呼びかけるなか、子どもたちは校庭に整列し先生からの指示を50分もの間、じっと待っていました。不安と怖さで胸がつぶれる思いだったに違いありません。移動を始めたのは大津波に襲われるわずか1分前のことだったそうです。それも山ではなく川の方へ。
大川小の裏山は、生徒たちがシイタケを栽培していた場所でした。緩やかな傾斜で、校庭からは2~3分でのぼることができます。校舎を見下ろせるコンクリートで固めたテラス状の「たたき」もあり、ここに逃げてきてさえいれば…。私が実際にうかがった遺族の方のお話は決して感情的なものではありませんが、無念の思いがひしひしと伝わってきます。
ここでの出来事を未来へつなぐ
「大川震災伝承館」の「バーチャル校舎見学」では、現在立ち入れない校舎内の様子を見ることができます。また、この地区のジオラマや震災前と後の地区の様子を撮影した写真パネルが展示されていて、その変わりようから大津波の破壊力の大きさがよくわかります。震災後に提訴された、事故の責任を問う裁判についてもパネルで詳しく紹介されています。
生徒たちの安全・安心が最優先でなければならない学校で、守られたはずの多くの命が失われてしまった未曽有の出来事。「日常の学校経営の在り方が問われる」という遺族の方の言葉が重く感じられます。
【事例3】石巻市震災遺構 門脇(かどのわき)小学校
津波火災の怖さを伝える震災遺構
石巻市は、東日本大震災で約4000人もの命が失われた最大の被災地でした。なかでも、旧北上川河口部に位置する南浜地区の被害は大きく、500人以上の方々が犠牲になりました。今、その跡地は石巻南浜津波復興祈念公園となり、犠牲になったすべての生命の追悼と鎮魂の場、そして震災の記憶を伝える拠点となっています。
門脇小学校は、その公園の北にありました。震災当時、学校にいた子どもたちは全員が避難して無事でしたが、校舎は津波とそれが引き起こした火災により大きな被害を受けました。津波と火災、すぐには結びつかないかと思いますが、門脇小学校はその恐ろしさを伝える貴重な震災遺構です。
「垂直避難」では避けられない津波火災
門脇小の当時の体育館では、グシャッとつぶされた消防車と乗用車が最初に目に入ってきます。この展示だけで、津波の破壊力の凄まじさが実感できます。ここには、実際に使われた応急の仮設住宅も展示されています。
3階建ての本校舎の各教室には、焼け焦げた跡があり、崩れ落ちた壁や天井の建材、金属の部分だけになったイスなどがそのままの姿で残されています。押し寄せた津波の高さは約1.8メートルといいますから、2・3階の教室は津波火災による被害の状況です。
津波は地震で火が出た家の建材などを押し流し、それらが校舎にぶつかって引火しました。校舎の屋上に避難してきた人たちは、さらに裏山に逃げなければならなかったそうです。津波のときは「垂直避難」といいますが、この事実は、それも決して安全だとはいえないということを伝えているのです。
被災体験を自分の身に置き換えてみる
特別教室があった別棟には、体験者の記憶が詩や絵で表現されたゾーンがあり、これまで見学してきたことを自分の身に置き換えて考える時間にすることができます。また、震災当日、子どもたちの素早い避難につながった学校の取り組みがわかる資料も展示されています。
プロジェクションマッピングには日本で発生した地震の発生場所と規模が投影されていて、全国各地で驚くほど多くの地震が起きていることがわかります。繰り返し流される地震直後のラジオ音声からは、その時の緊迫した状況が伝わってきて、改めて震災の怖さが感じられました。
震災遺構を通して学ぶことの意味
震災学習、防災・減災学習といっても、災害を実際に経験していない生徒たちにとってそうした学びを自分事としてとらえることは難しいことと思います。学校での防災訓練では、煙体験ハウスで煙の怖さを体感したり、起震車で地震の揺れを体験したりといったこともしますが、残念ながら生徒たちからは真剣さがあまり感じられませんでした。
しかし、被災地を訪れてその場所に立ち、震災遺構を前にしながら聴く被災された方々からのお話は、そんな生徒たちの心にも刺さります。被災した建物を遺すことは、思い出したくない記憶もとどめることになり、当然賛否がありますが、それを遺していただいたことで、亡くなられた方々の無念や被災された方々の思い、そして人が自然と共にあることの意味や生命の尊さを、生徒たちもより深く考えることができるのではないかと思います。
災害時にはまず「自助」で自分の身を守り、その後の「共助」で自分のできることを進んでおこなう。とくに共助では、中学生・高校生が大きな力になります。生徒たちには、被災地での学びを通してその体験を自分事としてとらえ、次にくるかも知れない災害に備えてほしいと思っています。