
こんにちは。永山久徳です。
2023年12月、日本の「旅館業法」が改正されました。この改正によって、旅館やホテルがカスタマーハラスメント(カスハラ)に当たる特定の要求を行った人や、いわゆるクレーマーの宿泊を法的に拒否できるようになり、宿泊業界に画期的な変化をもたらしました。今回は、旅館業法の改正内容や、その後の社会がどう変化したかについて考察してみます。
日本では長年「お客様は神様」とされ、理不尽なクレームにも耐えることが当たり前と考えられてきましたが、この文化が従業員の負担を増大させ、離職やメンタル不調などにもつながっていたのも事実です。宿泊拒否ができないとされていた旅館業法は、その象徴的な存在でしたが、改正後は宿泊現場にどのような変化が起こったのでしょう。
旅館業法の改正内容とは?
「旅館業法」は、1948年(昭和23年)に制定された法律です。公衆衛生や国民生活の向上などの観点から、ホテルや旅館の営業者は基本的にすべての宿泊希望者を受け入れる義務がありました。伝染性の疾病にかかっていると明らかに認められる場合、宿泊者が公の秩序を乱す可能性がある場合など、ピンポイントで規定された宿泊拒否事由に該当する場合を除き、「宿泊を拒んではならない」とされていました。
しかし、コロナ禍の初期を思い返してみると、このような事例がありました。海外から戻った人に厳しい目が向けられていた時期に帰国した人や、本人が発症したと思われる時に家族への感染や関係者への風評被害を恐れた人が、宿泊施設にその情報を伝えずに宿泊するケースが頻発しました。宿泊施設は宿泊客の健康状態を確認する権限も無く、渡航歴や症状を聞いたところで、それを理由に拒否することはできませんでした。
そのため、宿泊施設で働くことは危険だという意識が広がり、休職や離職が進みました。一説には2割もの人が宿泊業界を離れたといいます。そのような中でも、行政から「宿泊施設は感染者を拒否することはできない」という原則を再確認する文書が通知され、さらに、その状況がメディアを通じて国民の間に広がり、宿泊施設にとって厳しい状態が続きました。
また、宿泊施設には感染を危惧して自主隔離する人が殺到しただけではなく、社会が荒んでいた時期でもあるため、ストレスを抱えた人たちが、宿泊施設のフロントを「はけ口」とするケースもあらわれました。宿泊客の一部とはいえ、どれだけ迷惑をかけても追い出されることはないと知った上で攻撃してくる人たちの理不尽なクレームは、どれほど強烈なものであったかは皆さんにも想像できるでしょう。
そのような現状も踏まえ、業界内外からの意見を集約した結果、2023年6月に旅館業法が改正され、同年12月13日に施行されました。この改正によって、宿泊施設に過重な負担となり、ほかの宿泊者に対する宿泊サービスの提供を著しく阻害するおそれのある要求を繰り返す「迷惑客」の宿泊を拒むことができるようになりました。
この法改正では、宿泊者が「合理的な理由なく不当な要求や迷惑行為を繰り返す場合」には宿泊を拒否できると明文化されました。これにより、いわゆるカスハラへの対策が強化され、従業員の権利が守られやすくなったといえます。
宿泊業界のカスハラの実態
多くの宿泊客は、旅を楽しむ善良なお客様です。しかし、旅館やホテルでは、深夜まで長時間クレーム対応を強いたり、些細なミスに過剰な補償を求める一部の宿泊客が日常的に存在したのも事実です。例えば、部屋の眺望が思ったものと違うという理由や、従業員の言葉遣いや些細なミスを原因に宿泊料の全額返金を求めたり、従業員に土下座を強要したりするような行為も実際に報告されています。
こうした理不尽な要求が原因で、心をすり減らして退職するスタッフも少なくありませんでした。特に、地域密着型の旅館では「悪評が立つと経営に響く」という不安から、不合理なクレームでも泣き寝入りせざるを得ない場合が多かったのです。こうした状況が長年続いたことが、サービス業全体の人手不足や離職率の高さにもつながっていたといっても間違いではないでしょう。
また、ネットが普及する以前の宿泊予約は、旅行会社の窓口や宿泊施設への直接の電話など、人を介することが当たり前でした。それは、宿泊前に利用者の宿泊目的や宿のサービス内容などお互いの情報を交換し、打ち合わせることでミスマッチを防ぐ効果がありました。つまり、契約前にある程度はクレームの芽を摘むことが可能だったのです。
しかし、昨今ではオンライントラベルエージェント(OTA)を介したネット予約が主流となりました。OTA予約では利用者が宿の情報や個性を理解しないまま予約、すなわち契約をしてしまうため、宿泊施設に来館してからミスマッチを感じ、クレームに発展するケースも増えました。あたり前ですが、旅館業法における宿泊拒否規定は、契約前には対象外です。しかし、OTAによる予約後は契約期間となるため、旅館業法の適用範囲内になり、トラブルが増加したという理由もありそうです。
法改正後の社会の意識の変化に期待
法改正から1年が経過し、まだ調査結果は出ていませんが、メディアの報道を通じて「悪質なクレームは違法になる可能性がある」という意識が広まったことは間違いありません。実際、カスハラという言葉が2024年の流行語大賞にノミネートされたことで、国民の間にカスハラは悪だという認識が広く広がったのは、この旅館業法改正がきっかけになったことは間違いありません。実際、飲食業界や運輸業界、医療業界などからも、法改正後に宿泊業がどのようにクレームに対応するのか注視されています。
そして、「従業員とお客様は対等な関係である」という考え方も徐々に広がっています。海外のホテルでは、勤務時間外のスタッフと宿泊客が同じバーで会話を楽しむようなフラットな関係が見られます。一方で、日本ではスタッフはあくまで下働きと見なされ、上下関係、主従関係にあるとする風潮が根強く残っていました。そもそもクレームは正義だという考え方も根強く、客がわざわざ指摘してあげているのだからむしろ感謝するべきと信じて疑わないクレーマーも多くいました。その意識が変わりはじめたことは、とても大きな変化だと言えるでしょう。今回の旅館業法の改正を契機に、日本でも従業員の尊厳や権利を守る文化が根付いていく可能性があります。
今後の課題と期待
もちろん、法改正によってすべての問題がすぐに解決するわけではありません。クレームが悪質かどうかの線引きが難しい場合もあり、判断を誤ると新たなトラブルにつながるリスクもあります。また、一部にはサービスの質の低下や人権の問題などを懸念する声もあります。いくら法的に拒否できるようになったとは言え、現場の従業員が即座に毅然とした態度を取るのは心理的なハードルが高いこともあるでしょう。
それでも、宿泊業界やサービス業全体が、この変化をうまく活用し、社会の変化に対応する形で社内研修やマニュアル整備を進めることで、スタッフがより安心して働ける環境が整っていくはずです。そして結果的に、従業員が心に余裕を持って働けることで、サービスの質も向上し、宿泊客側もより良い体験ができるという好循環が生まれるでしょう。
日本のホスピタリティ文化は世界的にも高く評価されていますが、それは決して過剰サービスや利用者の要求を無条件に受け入れることで成り立っていたものではありません。サービスする側とサービスを受ける側が互いを思いやって、共通の時間を過ごすことによって生まれるものであったはずです。人口減少局面において日本的なサービス品質を守るために、顧客満足と同時に従業員の健康や働きやすさにも配慮の行き届いたバランスのとれた業界になることを願いつつ、これからの変化を見守りたいと思います。