【秋本俊二のエアライン・レポート】
臨時便を東北へ! 逃げ遅れた乗客を「3.11」直後から輸送しつづけたジェイ・エアの物語(下)
東日本を巨大地震が襲った2011年3月11日は、金曜日だった。ジェイ・エアの社員たちは翌日の土曜日も、そして翌々日の日曜日も出社し、東北への便を飛ばしつづける。3.11の翌日から臨時便を設定し、2日後には臨時便4本、定期便4本の計8本を伊丹/羽田と山形のあいだで運航した。彼らは当時、何を思い、具体的にどう動いたのか──。
社長として同社を率いた山村毅氏(現 JAL執行役員・貨物郵便本部長)が語る。
前回のレポートはこちら>>
東北の空港はほぼ機能せず、現場は自転車操業に
震災直後は、東北のほとんどの空港が機能せず、使えたのは山形だけだった。出張などで東北を訪れていた人たちが「山形まで行けば帰れるかもしれない」と、続々と空港にたどり着く。空港ビルで夜を明かした人も少なくなかった。ジェイ・エアは「料金は後払いでかまいません」と乗客に伝え、翌日も翌々日も伊丹への輸送をつづけた。
「現場は“自転車操業”のような状態でした。毎日毎日、1日単位で、前日の夕方から臨時便の計画を始めて夜9時ごろにそれを決定します。それから『臨時便を運航します』という広報発表を行い、予約受付を開始すると、10分で全席が埋まってしまうんです。東北から関西に帰りたいという人たちの間で『JALが臨時便を飛ばし始めている』という噂が広まっていました。会社の予約センターの電話はいっときも鳴り止まなかったのはもちろん、JALのホームページを常にPCに表示させて臨時便の発表を待っていた人も多かったようです」
水没した仙台空港には通常、E170とCRJ200の2機の機材を使って大阪から3往復と札幌から5往復、福岡から2往復を運航している。ジェイ・エアはそれらの機材を中心に、山形への臨時便を増やしていった。しかし機材は確保できても、空港スロットをもらう交渉で難航したり、乗員をうまく割り当てられなければ飛ばすことはできない。
「乗員部の社員は調整に苦労したようです。休暇中だった機長や副操縦士の多くが、電話で『休みだけど何かやることがあれば手伝いたい』と申し出てくれました。気持ちは嬉しくても、しかし就業規則上、どうしても休んでいただかないといけない。緊急事態だからといって、規則を破って飛んでもらうわけにはいかないのです。『だったら地上業務を手伝いたいと』と言ってくれる人も少なくありませんでした。きっと社員全員が同じ気持ちだったと思います。ですが、地上は地上で、社員総出で頑張ってくれている。パイロットにはそう伝えました。休暇明けに予想される激務に備えてもらう意味でも、むしろ身体を休めておいてもらうことのほうが大切でしたから」
山形空港には当時、伊丹から毎日3便、羽田から1便のジェイ・エアが飛んでいた。空港スタッフは、その4便に必要な人数がいるだけだ。しかし3.11の翌日は臨時便を含めて5便になり、その後は8便、9便と増えていく。不足した人員を補うべく、大阪から社員を送り、その後はJALの臨時便運航を機に全国の空港スタッフが山形へ応援に駆けつけた。
スタッフの"心の負担"が限界に ――「それでも飛ばしつづけるしかない」
「毎朝カウンターをオープンする時間には、山形から出発しようとする人たちですでに長蛇の列だったといいます。仕事が始まると、空港スタッフたちは夜の8時、9時まで一度もバックオフィスへは戻れない。休み時間なしで案内やチェックイン業務に追われました。食事に行く時間もとれないのを承知で、朝6時にオフィスでおにぎりを食べると、気合いを入れて職場に出ていったと聞きます。空港へはみんなクルマ通勤だったようですが、ガソリンがなくなると補充できず、仕事に行けません。『飛行機を止めるわけにはいかないので優先的にガソリンを売ってほしい』と、スタンドの会社との交渉も自分たちで進めていました」
臨時便のキャビンを担当する客室乗務員たちには、体力的よりも精神的な負担が積もっていたようだ。最初の1週間は出張先の東北から避難する乗客が多かったが、2週目、3週目になると乗ってくる客層に変化が起こった。
「身寄りのない子供が、ランドセル一つで乗ってきたりしました。東北で家族を失い、遠い親戚を頼っての旅だったのでしょう。客室乗務員たちは、そういう乗客をケアしながらのフライトで、心の負担が大きかったと思います。乗務を終えてオフィスに戻り、ワンワン泣いていた若い乗務員もいました」
仙台空港に津波が押し寄せたときに、空港スタッフたちが防寒具として着用していた黄色いジャンパーがある。それを、いまでも見ることができないと言っている人も多い。思い出すのが辛い、黄色のジャンパーを見ると胸が苦しくなるというのだ。
「それでも、私たちは飛ばしつづけるしかありません。3.11の5日後には花巻空港が再開し、山形と花巻に臨時便を集中させました。東京からもJALの臨時便運航が始まり、震災後のJALグループの臨時便は半年間で約3000便に達しました。そのうちの1900便以上が、ジェイ・エアの便でした」
「料金後払い」の額は1200万円超、その顛末は――?
前述したように、ジェイ・エアは「緊急事態なので運賃は後払いでかまいません」とアナウンスし、東北への臨時便を飛ばしていた。料金を回収できなければ大赤字になってしまうのを覚悟の上だ。収入がゼロというだけではなく、飛行機を飛ばすには燃料費も含めて膨大なコストがかかる。
「責任は私がもつから、とにかくチケットをもたない人も乗せて飛ばしてほしい。そう指示したあのときの自分の判断が正しかったのかどうか──いまもわかりません。正規料金でいうと、山形から大阪への運賃は3万円ちょっとで、76人が一人も払ってくれなければ200万円以上の損失になる。それが6便になると、1200万円。ですが、社内で反対の声などはいっさい出なかったですね。むしろ『やりましょう!』と、社員の気持ちは一つになっていたと思います」
山形から伊丹に到着すると、乗客たちは「こちらにお並びください」と空港スタッフやジェイ・エア社員に誘導される。そこで一人ひとりに後払いをお願いするため、連絡先を聞くなどの対応がとられた。では、実際にどれくらいの乗客から後で料金を徴収できたのか? その質問に、山村氏は当時を思い出しながら目を細めた。
「結論から言うと、全員です。お支払いいただけなかったケースは1件もありません。社員たちも、みんな驚いていましたよ。連絡先などは聞いてありましたが、社員が『払ってください』と個別に訪ねたわけでもありません。名前も住所もウソを書かれたら、それで通ってしまう。伊丹で降りた乗客に『こちらで手続きをお願いします』と誘導はしたものの、トイレへ行くと言ってどこかへ消えてしまったら、追いかける術もない。しかし、結果は全員が後できちんと振り込んでくださいました。日本人の素晴らしさだと思いますね」
3.11から5年。ジェイ・エアの社員たちは、今日もそれぞれの現場で自分たちの果たすべき役割・仕事に取り組んでいる。